2021年10月22日 1695号

【未来への責任(333)/釜石訴訟支えた千田さん追悼】

 日本製鉄釜石訴訟を釜石で支えてくれた千田(ちだ)ハルさんが9月18日に亡くなった。97歳だった。

 千田さんは日本の敗戦時、釜石製鉄所でタイピストとして働いていた。釜石は1945年7月14日と8月9日に連合国艦隊の激しい艦砲射撃を受け、工場も市街地も壊滅した。犠牲者は千人を超えるとも言われ、現在も釜石市では犠牲者の調査が続けられている。

 戦災を生きのびた千田さんは、戦後、仲間と共に同人誌『花貌(かぼう)』を発行した。文芸活動の傍(かたわ)ら子どもたちに戦争の体験を伝える語り部活動にも晩年まで取り組んだ。

 昨年8月には共同通信の取材に応じ、次のように語っていた。「戦争と災害、両方の記憶をつないでいってほしい」「命が何より大事。戦争はなくせるし災害も事前の備えで被害を最小限に抑えられると思う。どんな悲惨な出来事も、体験者はいつかいなくなる。次の世代が記憶を受け継ぎ繰り返さないために何をすればいいか考え続けてほしい」

 「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」と千田さんとの出会いは、1995年の夏に遡(さかのぼ)る。私たちは東京で釜石訴訟提訴の準備を進めていたが、支援スタッフは誰も釜石に足を踏み入れたこともなく、知人もいなかった。とにかく現地に行って情報を集めたい。私は一人釜石まで出かけ市役所に相談に行ったが、当時の死亡者関係の公文書はすでに廃棄された後だということだった。

 がっかりする私に国際交流担当の係長さんが『花貌』の艦砲戦災体験集を紹介してくれた。近くの書店に行ってみたが売り切れだった。店主は「直接、編集人の千田さんに問い合わせたら」とアドバイスしてくれた。市役所に戻り係長に顛末(てんまつ)を説明すると「貸してあげる」と市役所の『花貌』をどこの馬の骨か分からない私に貸してくれた。

 携帯電話を持っていない当時、私は公衆電話から千田さんに電話。真夏の日差しの照りつける中、1時間ほど歩いて汗だくになりながら千田さんのご自宅にたどりついた。千田さんは私たちの裁判に共感し、以来、「支援する会」会員としての長きにわたる支援とともに、証人として法廷にも立ってくださった。

 2011年3月11日の東日本大震災で千田さんは多くの仲間を失い、前年にオープンした戦災資料館も破壊された。私たちは毎月ボランティアで釜石を訪れる度、千田さんとの交流を続けた。市民団体との架け橋となってくれたのも千田さんだ。それが、今年2月の韓国人犠牲者の認定にもつながった。

 コロナ禍でお会いする機会を作ることが出来ず、本当に残念だ。心より感謝を申し上げたい。

(日本製鉄元徴用工裁判を支援する会 山本直好)

 
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