2021年12月24日 1704号

【沖縄恨之碑の会 ぺ・ポンギさん30年忌追悼シンポジウム 心の傷を抱え生き続けた姿に思い馳せる】

県内外から140人

 アジア太平洋戦争中の1944年、朝鮮半島から日本軍「慰安婦」として沖縄に連れて来られ、戦後も沖縄で生き続けた裴奉奇(ペポンギ)さんは、1991年10月18日に那覇市内で逝去。77歳だった。その「30年忌 追悼シンポジウム」(沖縄恨(ハン)之碑の会主催)が11月20日、南風原(はえばる)町文化センターで開催された。県内外から主催者の予想を大きく上回る140人の参加があった。

 裴さんは、朝鮮半島中西部の忠清南道(チュンチョンナムド)新礼院(シルレウォン)出身。母親が家出し一家離散の極貧生活の中で「仕事せずに金の儲かるところがある。行かないか」と騙されて1944年11月、29歳のときに沖縄へ。当時沖縄では、日本軍の駐留する島々に145か所の「慰安所」が設置され、裴さんは渡嘉敷島の「慰安所」で日本兵の相手を強いられた。

 1991年に金学順(キムハクスン)さんが元「慰安婦」であったことを初めて名乗り出たとされるが、裴さんはそれより16年早い1975年、「不法残留」による強制退去の報道で元「慰安婦」としての存在が明らかになった。


軍「慰安婦」制度の残忍

 シンポジウムでは、裴さんと17年間にわたり交流を続けたキム・ヒョノクさん、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表の高里鈴代さん、1998年に裴さんに関する連載記事を書いた琉球新報記者だった松永勝利さん、コーディネイターとして恨之碑の会共同代表の安里英子さんが登壇した。

 キム・ヒョノクさんは、夫で朝鮮総連県本部キム・スソップさん(2019年逝去、享年78歳)と共に1975年から裴さんの那覇市での生活を支えた。「慰安婦」時代の心の傷に加え故郷に帰れず涙を流していたこと、病的なまでの潔癖症だったことなどのエピソードを紹介し、「晩年は心の傷は少しは癒されたのではないか」と語った。

 高里さんは、裴さんがアパートの部屋で時々、精神が昂ぶり大声を出したという話について、「一日に10人から15人の日本兵の相手をさせられ、発狂≠オないほうが不思議。自分なら自死を選んだ」と慰安婦制度の残忍性を厳しく批判。「日本軍の陣中日誌に料金や人数などが細かく記録されており、軍が制度としてつくったことはごまかしようがない」と指摘した。

 松永さんは「連載記事開始のとき、すでに裴さんは亡くなっていた。そんな自分が裴さんのことを書いていいのか、しかし記者として裴さんが戦後も沖縄で生きてきた軌跡をどうしても残したかった」など当時の葛藤を語る。「裴さんの取材記事の書き方について、故キム・スソップさんから度々激怒され指摘を受けたたことで、裴さんに寄り添う意味を改めて理解できた」と述べた。

人権の意味 教えられる

 フロアからの発言も相次いだ。現在那覇市副市長で、28歳の時に裴さんの生活保護の担当ケースワーカーをしていた久場健護さんは「裴さんとの関係を通して、人権は尊重されないといけないことを学んだ」。総務部長だった2015年に那覇市が宣言した「性の多様性を尊重する都市・なは」は、裴さんから教えられたものが自分の中にあったからできた」と語った。

 また、軍「慰安婦」が沖縄にいたこと、沖縄に145か所も「慰安所」があったことを何も知らなかったとの発言や、「日韓請求権協定で問題は解決している」とする政治家の話が間違っていることがわかった、など多くの意見が出された。

 最後に安里代表が「裴さん20周忌から10年。こんなにたくさんの人が参加し、裴さんのことを伝えられた」とまとめた。

 演台には安里さんが自宅からもって来た小さな紫色の花。「私は花は嫌い」と言っていた裴さんが、キム夫妻らの温かい支援の中、晩年には一輪の花を買っていたエピソードがあった。その思い出が花の香りと共に会場に広がった。(N)

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