2022年1月14日 1706号

【時代はいま社会主義 第13回 新自由主義のイデオロギー(2)――格差社会を正当化する「自己責任」論――】

 前回第13回では、新自由主義の「民営化」路線、資本の「規制緩和・撤廃」が必然的に強大な格差社会を生み出すことを説明しました。今回は、それをうけて、この格差社会の存在を「正当化」しようとするのが「自己責任」論というイデオロギーであることを見ていきます。

 菅前首相は繰り返し「自助、共助、公助」を主張しました。この3つの単語の順番は重要な意味をもっていました。菅にとって、まずなによりも重要なのは「自助」なのです。「まずは自助だ」というのは、自分の経済的窮状は自分の努力不足や無能力の結果であるのだから、まずは自分の力で「自己責任」で何とかしろ、ということです。それでダメなときには「共助」、すなわち家族や親せきや知り合いに助けてもらえというわけです。そして、それでもダメなときに、不承不承ながらようやく「公助」、公的支援の出番となるのです。このような「順位づけ」は明らかに「自己責任」論に支えられています。

 ここに言う「自己責任」論は、「自分の言動には自分で責任をもつべきだ」というような一般的、形式的な論理のことではありません。「自己責任」論は広く社会を覆っているイデオロギー(社会的虚偽意識)なのです。それは、本来は社会の責任であることを個人の責任にすりかえ、もともと個人の責任であるかのように思わせる間違った論理のことです。為政者がこの論理を振りかざし、経済的に恵まれていない人びとにそれを突きつけるとき、誠実で強い「倫理観」をもった人ほど、より強くこの偽(いつわ)りの論理のとりこになりがちです。つまり、すべての責任を自分一人でしょい込もうとするのです。

 十分な能力があり、十分努力をしている人が多く経済的困窮や貧困に追いやられている。この事実一つをとっても、その原因が個人の能力や努力の不足にあるのではないことは明白です。その原因、その根本的な原因は、多くの場合社会制度のゆがみと不平等にあり、そうした不平等を拡大再生産している社会のシステムにあります。「自己責任」論はこの真の原因を見えなくさせ、社会制度の不正に眼を向けさせない役割を担っています。つまり、それは社会批判を封じるものとして機能しているのです。

 それゆえ「自己責任」論は、格差社会のあり方を「正当化」する役割も担っています。「自己責任」論者は、現存する社会的・経済的格差は個人の能力や努力の格差の必然的な結果だ、と言い張るからです。この理屈がまったく破綻していることは、すでにルソーの『人間不平等起原論』によって明白になっています。この著は、現存する深刻な社会的不平等は、人間の間の取るに足らない「自然的」不平等(能力や資質の差)によってはけっして正当化できず、それとはけた違いに強大な社会の不平等が産み出した産物であることを明らかにし、それゆえ不平等社会の是正こそが重要であることを説きました。われわれは、この著作が250年以上も前に書かれたことを肝に銘じるべきです。

 こうして、「自己責任」論は社会の責任を個人の責任に還元することによって、格差を拡大再生産している不平等社会のシステム自身を「正当化」しようとするイデオロギーなのです。 《この項終わり》
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