2022年07月08日 1730号

【朝鮮人軍夫の犠牲に思いを馳せる 沖縄恨(ハン)之碑追悼会 再び戦場にさせない決意新たに】

 連日続いた雨が晴れ上がった6月18日午後、読谷村瀬名波(よみたんそんせなは)の丘で、沖縄恨之碑の会の追悼会が開催された。2006年5月に建立されて16回目を迎えた。この1年、建立に携わった反戦地主で理事の有銘(ありめ)政夫さん、元会計の山口洋子さんのお二人がなくなり、会は黙とうから始まった。

 沖縄戦に動員された朝鮮半島出身の青年たちは、弾薬運搬や塹壕掘りなど軍夫として最前線に立たされ多くが犠牲となった。恨之碑は、生きのびた元軍夫たちの亡くなった同胞への強い思いによって、全国の市民からの多額の寄付で韓国・慶尚北道(キョンサンブクド)の英陽(ヨンヤン)と沖縄の地に建立された。

朝鮮 韓国民衆とともに

 読谷村在住の知花一昌さんら僧侶による読経のあと、新しく会の共同代表に就任した名桜大学教員の許点淑さんが開会のあいさつ。「元軍夫の故姜仁昌(カンインチョン)さんの聞き取りに通訳として関わったことがきっかけだった。若い人たちに沖縄戦の実相を継承させたいとこの運動を続けている」と語る。追悼会には、名桜大学の学生たちも駆けつけた。

 近くに住む中野夢さんが奏でる琉球横笛の音色は、周りに茂る新緑の樹木に染み入るように響いた。

 古堅(ふるげん)守読谷村副村長は、石嶺傳実村長のメッセージを読み上げた。「77年前の沖縄戦は、4月1日ここ読谷村から米軍は上陸し、たくさんの県民が犠牲となった。朝鮮半島からの青年たちに思いを馳せ追悼する」

 碑の建立をリードされ、92歳になったクリスチャンの平良修さんは、右横に設置された碑文の内容を説明した。碑の製作者、彫刻家の金城実さんは、デザインを構想してきた思いとともに「復帰50年、当時の琉球政府主席の屋良朝苗は、日米の密約にだまされた。心やさしくてだまされやすい沖縄人が外圧を押し返すことが大事。辺野古では諦めず闘い続けている。被害者意識ばかりではなく、朝鮮や韓国の民衆とともに闘っていかねばならない」と決意を語る。

 復帰50年の沖縄。6月23日の「慰霊の日」に向けて、今年は沖縄戦で犠牲となった約24万人の全戦没者の名前を読み上げる市民運動が取り組まれた。追悼会前日には、「平和の礎」に刻銘された朝鮮半島出身者の名前も読み上げられた。

 追悼会には、在日本大韓民国民団や在日本朝鮮人総聯合会の関係者、日韓友好協会等多数の参加があった。

 また、強制集団死があったチビチリガマ遺族会長で、読谷村議の與那覇(よなは)徳雄さんも参列。沖縄戦の戦争遺跡を継承していくことの重要性も改めて感じられた。

平和の架け橋として

 県内のキリスト者で結成された「普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会」からは十数名が参加し、賛美歌とともに「勝利を我らに(We Shall Overcome)」を全員で歌い上げた。

 最後に会の理事で音楽家の海勢頭(うみせど)豊さんと島田路沙さんによるコンサート。日本軍慰安婦として戦後も沖縄で生き延びた故ペ・ポンギさんを悼む「トラジの花」と「月桃」が歌われた。

 会の事務局長で、毎日のように辺野古と安和(あわ)桟橋で新基地建設阻止行動を続ける上間芳子さんがお礼とまとめのあいさつ。「コロナ禍で、なかなか集まれないが、今日70名を超す参加があった。恨之碑は今後も東アジアの平和の架け橋として活動を続ける」。

 恨之碑は今、近くに住むボランティアの計り知れないほどの努力で、清掃、草抜き、周辺整備が行われている。碑の前にはポンソナ(鳳仙花)の赤や白の花が咲き、碑の上のガジュマルの樹には黒い蝶が舞い、鳥がさえずり続ける。再び沖縄を戦場にしてはならない思いを、誰もが強くした追悼会だった。  (N)



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