2022年07月08日 1730号

【哲学世間話(33) 改めて「人ひとり」の命 田端信広】

 最近はテレビを見ていて腹立たしいことが多い。なかでも最悪なのは、昼夜を問わず流されるワイドショーや情報系番組でのウクライナ報道である。

 「ロシア軍が○○を包囲した」「ウクライナ軍は△△を奪還した」「××では市街戦に突入した」。こうした類の「軍事」情報が、まるで囲碁やテレビゲームでの陣地取り合戦であるかのごとく報じられている。コメンテーターたち(その多くは、防衛省防衛研究所の所員である)は、両軍の武器の性能について得々としゃべっている。

 この手の報道がまったく腹立たしいのは、この戦争でなんの罪もない市民が、そして両軍の兵士が毎日、何十人、何百人も殺され、死に続けているということの重みが消し去られているからである。彼らは、まるでそんなことはなかったかの如(ごと)くに語っている。

 だがたとえ「この戦争で何百人の犠牲者がでた」と報じても、それは「戦争の真実」を語ったことにはならない。犠牲となっているのは、一束、二束とくくられ数量化された「多数の人間」ではない。死ぬ―殺されるのは、それぞれ唯一無比の「この人」なのである。

 「この人」の生を、それゆえその死を、他の人の生や死と比較することはできない。人間は一人ひとりが比較を絶した、かけがえのない存在なのであるから。

 「数百人の犠牲者」の前にある、「この人」一人の死に深く思いを巡らせねばならない。ここにこそ、「戦争の真実」が凝縮して表わされるからである。数量化された「数百人の犠牲者」は、この「真実」を伝えない。「国家の大義」は、戦争における「この人」の死をいつも簡単に数量化し、そして消し去ってしまう。

 「人ひとり」の命、人生の重みが、かつて「一人の命は地球より重い」と語られた時代があった。これは、もともとは明治の初期に或(あ)るキリスト教思想家によって語られた言葉である。

 この言葉を理想主義的な空論だと一蹴することはたやすい。だが、そう一蹴する「現実主義者」は、往々にして戦争犠牲者の数の多い少ないによって、戦争の「成否」を判断することになる。彼は唯一無比の「質」を「量」に還元しているのである。数の多寡ではなく、「人ひとり」の命がすべてなのである。この観点に思いを重ね合わせることなしに、戦争の理不尽は告発できないだろう。

  (筆者は元大学教員)
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