2022年07月22日 1732号

【時代はいま社会主義/第21回/『国家と革命』(3)―ナショナリズムという虚偽意識】

 第19回と第20回でこう述べておいた――国家は根本的には支配階級全体の長期的な利益を実現し防衛するための機関であるにもかかわらず、その「公的な性格」のおかげで、国家はあたかも住民全体の共通利益の実現を主要な目的とする組織であるかのように想定されてしまう、と。

 しかし、「自国民」と「他国民」とのあいだに区別を設けるとともに、この区別を敵対関係や優劣関係にまで偽造してしまうナショナリズムは、国家の「公共性」だけでは形成されえない。ナショナリズムは1789年のフランス革命以降の近代的な現象なのであり、そこでは「国民」なるものを上から人為的に形づくるための実践や制度が重要な役割を演じたのだ。19世紀以降に開発されたそれらの人為的な実践や制度は、お互いにまったく見知らぬ者であり、いわゆる「方言」の壁に阻まれて言葉による簡単な意思疎通さえ不可能であった人びとのあいだに、「われわれ」は同じ「国民」なのだという自己意識を植えつけた。

 日本人は違和感を覚えるかもしれないが、英語の文献ではしばしば「国民構築(nation-building)」という語が用いられる。つまり、この語を用いる論者にとって「国民」とは自然なものではなく、国家権力の作為や政策によって造り出されたものでしかないのだ。

 ナショナリズムを培養した実践や制度は、英国の政治学者であるB.アンダーソンが『想像の共同体』という著書で述べているように、雑誌や新聞が普及させたマスメディアの共通言語によるエリートたちの知的統合から始まり、初等教育や中等教育をとおした労働者階級への「国語」と「国史」の注入、国民的な記念碑や歴史博物館の建立、そして労働者階級に対してすら「祖国防衛」のために戦うことを強いる徴兵制を経て、「国民」にのみ社会権を保障し「他国民」を除外する国民的福祉国家にいたるまで、実に多様である。そうした実践や制度をとおして、一方における「故郷の人びと、風土、文化」と、他方における国家権力(国会、政府、裁判所)とが、そもそも異質であるにもかかわらず同一視されてしまうのである。こうして国民的な実践や制度は、「他国民」と混同されてはならない「われわれ」という排他的な自己意識を生み出したのだった。

 戦争が勃発して排外主義とナショナリズムが台頭する時代には、帝国主義への批判と国家への批判の両方が不可欠であることを、レーニンは察知していた。だからこそ彼は、『帝国主義論』および『国家と革命』を第一次世界大戦中の1916年から17年にかけて連続して執筆したのだ。

 レーニンのこの洞察は、ウクライナ戦争が勃発した2022年にはとくに重要となる。ロシアによる侵略に反対するとともに、この侵略による被害をこうむっているウクライナの人びとに連帯して支援の手をさし伸べることは、ウクライナの国家とその政府(ゼレンスキー政権)を支持することとまったく別の事柄である。ウクライナの音楽や文学を(暗黙のうちにロシアとの対比・対立の関係において)日本で披瀝(ひれき)する試みは実は、戦争当事国の一方にのみ肩入れし、結果としてはウクライナ政府による戦争政策を後押ししている。国家とその領土内で暮らしている人びととを混同せずに峻別(しゅんべつ)することこそが、ナショナリズムへの批判の根本である。

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