2022年08月26日 1736号
【安倍元首相銃撃事件を考える/容疑者に「共感」が示すもの/民主主義の機能マヒが暴力に】
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安倍晋三元首相銃撃事件の山上徹也容疑者は、犯行に至る思いを綴った手紙や大量のツイートを残していた。その内容に「共感した」という声は少なくない。「彼は時代の被害者だ」と擁護する人さえいる。こうした現象は何を意味するのか。
減刑要求署名も
山上容疑者の減刑を求める署名運動がオンライン上で起きている。賛同者はすでに6千人を超え(8/10現在)、同情的な意見や思いは理解できるとの声が多数寄せられている。
「彼は統一教会の犠牲者だけでなく、今日の日本社会の犠牲者でもある」「カルト集団と政治のつながりを放置していた国や世間が悪い」「状況を知れば知るほど、なんとか減刑してあげたいという、人間の心からの感情が湧いてくる」
ネットの反応はどうか。ヤフーニュースのコメント欄は通常「自己責任」論であふれかえるものだが、今回は違う。「自助、自己責任で社会保障なんてきれいごと。ほぼ機能なんてしてない。だからこうした悲劇が生まれるんだと思う」など、政治の責任を問う意見が実に多いのだ。
もちろん「殺人を肯定するのか」という批判意見もあるが、即座に怒りの反論が寄せられる。「じゃあ、どうすればよかったのか? 巨大な相手にどうやって立ち向かえばいいですか? 頼る人が自分しかいない、追い詰められた人間を救えますか?」等々。
殺人事件の容疑者がここまで擁護される現象は近年なかったことである。一体何が、人びとの心を揺さぶっているのか。
孤独と絶望に共鳴
《母の入信から億を超える金銭の浪費、家庭崩壊、破産…。この経過と共に私の10代は過ぎ去りました。その間の経験は私の一生を歪ませ続けたと言っても過言ではありません》
これは山上容疑者が犯行前日に投函したとみられる手紙の一節である。母親が統一教会に全財産を注ぎ込み一家は困窮。山上容疑者は大学進学を断念し、海上自衛隊勤務を経て、アルバイトや派遣の仕事を転々としてきた。
ツイッターで自身の境遇や心情を吐露するようになったのは2019年のこと。自分を苦しめる統一教会の問題に社会が目を向けないことへの苛立ち、絶望感が文面ににじむ。
コロナ禍で大学生が孤独に陥っているとの報道に対しては《言っちゃ何だがオレの10代後半から20代初期なんかこれ以下だよ。社会問題として支援が呼びかけられる様は羨ましいとすら思う》(21年2月28日)
続けてこうも書いている。《正直に言うと震災の時すらそう思った。肉親を失い生活基盤を失い病むのは同じでもこれだけ報道され共有され多くを語らずとも理解され支援される可能性がある。何て恵まれているのだろう、そう思った》
彼は今の日本社会を次のように捉えていた。《何故かこの社会は最も愛される必要のある脱落者は最も愛されないようにできている》(20年1月21日)
この言葉に同意する人は多いのではないか。貧困と経済格差、そして分断が広がる中、社会的に取り残された人びとの孤立感とあきらめが深まっている。だから山上容疑者の孤独な叫びに共鳴するのだろう。
暴力の連鎖防ぐには
山上容疑者の怒りは「理不尽な社会を変える」という方向に向かわなかった。同じような境遇の人たちが集まって行動し、問題を解決していくという発想はなかった。いや、拒もうとしてきたといえる。彼自身が「自己責任」論の呪縛にとらわれていたからだ。
政治や社会問題に関するツイートをみると、韓国ヘイトや左翼批判の内容が目立つ。パワハラに抗議した労働者を冷笑するものもあった。おそらくは権力者と同じ思考法で「弱者」を叩くことで、崩れそうになる自尊心を維持していたのではないだろうか。
《我、一命を賭して全ての統一教会に関わる者の解放者とならん》(20年1月21日)。山上容疑者は暴力の行使によって統一教会に決定的な打撃を与えようとした。政治や法的手段による問題解決を彼はまったく信じていなかった。
つまり日本の民主主義制度が機能していれば、今回のような事件は起きなかったはずだ。そういう意味では「民主主義の敗北」と言っていい。安倍政権による戦後民主主義の解体が暴力を召喚したのである。
類似の事件、暴力の連鎖を防ぐには、弱者切り捨て社会をもたらした新自由主義政策を変えていかねばならない。その実践を通して、民主主義への信頼を取り戻す必要がある。統一教会の問題を中途半端に幕引きしたり、民主的手続きをすっとばして「国葬」を強行するようなことがあってはならないのだ。 (M)
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