2022年09月16日 1739号

【新・哲学世間話(34)田端信広 統一教会の「宗教的」実践】

 旧統一教会問題にからんで、「カルト宗教」という言葉を再び耳にするようになった。「カルト」はもともと儀礼や祭祀(さいし)を表す言葉で、悪い意味をもっていなかった。それがいつの頃からか、「カリスマ的な教祖に率いられた熱狂的な反社会的小教団」という意味で使われるようになった。

 さまざまな宗教は、歴史的に見て、大きく三つの類型に分類される。まず、長い歴史をもつキリスト教、仏教、イスラム教などの世界宗教がある。これらは既成宗教、「旧宗教」と呼ばれる。それに対し、日本では、明治以降に成立した天理教、立正佼成会などは「新宗教」と呼ばれることが多い。さらに、1960年頃以降に成立した「新新宗教」と呼ばれる類型がある。統一教会、オウム真理教、幸福の科学などである。

 概して「新宗教」の特徴は「現世利益」の宗教として、現実の病気や貧困、家庭内不和からの救済を主たる目的とする点にある。これと比べて、「新新宗教」の多くは霊的(スピリチュアルな)救済を圧倒的に重視する。この霊的救済は、しばしば「サタン(悪魔)の支配」からの救済、あるいは宿命的「業(ごう)」からの脱出として語られる。「新宗教」の救済が現実的で「公教的」であるのに対して、「新新宗教」の救済は神秘的で「秘教的」である。

 ある教団の目的や教えが「秘教的」であり、信者の信仰が熱狂的であることを理由に、それを断罪したり、処罰することはできない。「カルト」が非難や処罰の対象となるのは、その「宗教的」実践が、信者や一般の人に身体的、精神的、金銭的被害を与える場合だ。それゆえ、フランスの「反セクト法」(反カルト法)も、カルト団体を「形態もしくは目的がなんであれ、その活動に参加する人の精神的あるいは身体的依存を作り出し、維持し、利用することを目的または効果とする活動を行う団体」と定義しているのである。

 唯物論哲学者フォイエルバッハは「神の本質は人間の本質に他ならない」と語り、「宗教の神学的本質」と区別された「宗教の人間的本質」を説いた。いくつかの宗教団体が熱心に反戦平和運動に取り組み、人権擁護の闘いに積極的に参与しているのは、この「本質」の現実的表現である。だが、統一教会の「宗教的」実践は、この教団が「人間的本質」の対極にあることを如実に示している。

(筆者は元大学教員)
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