2022年10月21日 1744号

【菅「泣ける弔辞」の正体/狙いは安倍継承の押しつけ/異論を封殺、これが「国葬」】

 終わってなお評判が悪い「安倍国葬」。自民党にとって唯一のプラス材料は、菅義偉元首相の弔辞が「感動的」「泣ける」と称賛されたことであろう。しかし、「涙の弔辞」で菅復権なんて悪い冗談である。内容的にも菅弔辞は問題だらけであり、本当は徹底批判されなければならないものなのだ。

感動のオブラート

 「常に棒読み口調」「自分の言葉で話していない」。菅元首相のスピーチと言えば、そうした印象しかない。広島原爆忌の平和祈念式典で、あいさつの一部を読み飛ばしたこともあった(しかも「用紙がくっついていた」と嘘の釈明をした)。

 その菅が「安倍国葬」で読み上げた弔辞が絶賛されている。友人を思う温かい気持ちにあふれていたというのである。国民民主党の玉木雄一郎代表などは「感動しました。あの挨拶で国葬儀に対する印象が変わった人もいるのではないでしょうか」と持ち上げた。

 「感動」の大安売りにごまかされてはならない。菅弔辞の本質は安倍晋三元首相の「神格化」を通した自民党政治の正当化にある。それを情感的な言葉やエピソードにくるむことによって、人びとに受け入れさせようとしたものなのだ。

強権政治を自画自賛

 具体的にみていこう。菅は特定秘密保護法、安保法制、共謀罪導入法などを列挙し、「安倍総理」をいただいたからこそ、「難しかった法案をすべて成立させることができました」と賞賛した。「総理、あなたの判断はいつも正しかった」とまで言い切った。

 まともな審議もせず、反対意見を押し切って強行採決という安倍流が「正しかった」というのか。官房長官として支えた強権政治の自画自賛であり、厚顔無恥としか言いようがない。

 強権政治と言えば、その権化というべき山県有朋を菅は弔辞のクライマックスに登場させた。山県が長年の盟友だった伊藤博文を偲んで詠んだ歌「かたりあひて尽しし人は先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」を紹介。「私自身の思いです」と結んだ。

 山県は教育勅語や軍人勅諭を制定した軍国主義者でもある。自由民権運動を弾圧し、普通選挙にも反対した。そんな政治家を「民主主義を断固として守り抜くことを示す」(岸田文雄首相)はずの「安倍国葬」で、美化するとは…。

 安倍総理の遺志を継ぎ、「強い日本」すなわち軍事大国路線を邁進する。邪魔する者は山県がそうしたように弾圧する――菅が言いたかったのは要するにこういうことである。「感動ポイント」などと宣伝するメディアのバカさ加減はどうしようもない。

 もう一つ。菅は弔辞の冒頭で安倍の銃撃死に触れ、「天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか」と嘆いた。裏を返せば「いのちを失っても惜しくない人間」が菅基準では存在するということである。

 少々意地悪な深読みかもしれないが、真実は細部に宿るという。このくだりからは、安倍・菅の新自由主義政策の根っこにある優生思想がみてとれる。

テレ朝の玉川処分

 さて、安倍応援団激推しの菅弔辞に「使いまわし疑惑」が浮上している。ほかでもない安倍元首相が、長年のブレーンだった葛西敬之(元JR東海名誉会長)に向けた追悼コメントで、山県有朋の歌を使っていたのである(自身のフェイスブックへの投稿)。

 山県の歌のアイデアを菅のスピーチライターに授けたのは、杉田和博前官房副長官だという(10/2現代ビジネス配信記事)。やはり政治的意図にもとづく演出(かなり安直だが)があったということだ。

 一方、安倍応援団は「菅弔辞への批判は許さない」と息巻いている。テレビ朝日の玉川徹報道局員が「これこそが国葬の政治的意図だと思う」とワイドショー番組で発言すると、橋下徹などが「一線を超えた人格批判」などと猛攻撃。「偏向報道だ」と批判する自民党の西田昌司参院議員は「国政の場でも強く提起したい」と語った。

 玉川局員は「電通の関与」については事実誤認と訂正し謝罪したが、テレビ朝日は彼に出勤停止10日間の謹慎処分を命じた。番組降板もささやかれている。番組責任者の報道局情報番組センター長と担当チーフプロデューサーの2人も譴責処分を受けた。

 テレ朝上層部の権力迎合ぶりは情けない限りだが、これは「国葬」ならではの言論弾圧事件だ。「死者を悼む言葉にケチをつけるのは不謹慎」という空気を醸成し、異論や批判的検証を封じようとしているのだ。権力とは異なる思想を排除する――そうした機能が「国葬」にはある。(M)

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