2023年11月03日 1795号

【パレスチナ問題とは/イスラエル軍事占領からの解放闘争/ガザ封鎖を解け、軍隊は撤退せよ】

 パレスチナのガザ地区220万人が集団虐殺の危機に直面している。なぜこんな事態が引き起こされたのか。イスラエルの「報復」戦争を支持する大手マスコミが伝える情報では誤った認識が定着してしまう。パレスチナ問題とは何なのか。改めて基本的事実を整理しておこう。

Q パレスチナ問題とは何ですか

 ひとことでいえば、イスラエルが違法にパレスチナを軍事占領していることです。住んでいたパレスチナ人を殺したり追い出したりして家や農地を奪い取り、1948年5月14日、イスラエルという国を作ってしまったのです。建国当時、ユダヤ人が所有する土地の面積はパレスチナの約6%に過ぎませんでした。現在は、90%以上を占領・支配しているのです。



 パレスチナ人は、イスラエル「建国」により難民となったことを嘆く日として5月15日を「ナクバ(大災厄)」と呼び、毎年、抗議行動を行います。

 もう一つ、3月30日の「土地の日」があります。1976年のこの日、イスラエルがガリラヤ地区の土地を奪い取ろうしたときに抗議行動が起きました。6人のパレスチナ人が殺され、約100人の負傷者が出ました。パレスチナでは、毎年3月から5月にかけて、土地を返せと抗議行動が取り組まれているのです。

 「ナクバ」「土地の日」はパレスチナ問題を象徴的に表す言葉と言えます。パレスチナ問題はユダヤ教対イスラム教の宗教対立でもなければ、ユダヤ人対アラブ人の「民族」対立でもありません。占領地の解放を求める闘いであり、それがいまも続いているのです。

Q この問題が起きた原因は何ですか

 問題の種をまいたのは、100年前のイギリス、フランスの無責任な約束です。1914年から始まる第一次大戦の時、英仏はオスマン帝国が支配していたパレスチナを山分けする約束(16年、サイクス・ピコ協定)をする一方で、英国はアラブに独立国を約束(15年、フセイン・マクマホン書簡)し、ユダヤ人にも「ナショナル・ホーム」(国家)建設を約束(17年、バルフォア宣言)しました。いわゆる「三枚舌」外交と呼ばれるものです。

 相矛盾する3つの約束を守れるわけがありません。戦後、パレスチナの委任統治にあたった英国は解決できないまま、第二次大戦が勃発(ぼっぱつ)します。植民地争奪戦争だった第一次大戦。パレスチナの土地の奪い合いは未決着のまま、ユダヤ人(イスラエル)とアラブ諸国の間に戦争の種を残しました。

Q 軍事占領はなぜ続いているのですか

 第二次大戦後、ナチスドイツの「ホロコースト」(ユダヤ人大虐殺)が知れ渡り、ユダヤ人への同情が強まりました。英国に代わりシオニズム(ユダヤ人国家建設運動)の後ろ盾になった米国は、47年の国連総会で、イスラエルに有利な分割案採択に動きました。

 しかし、パレスチナの6%の土地しか所有していないユダヤ人に56%の土地を与える分割決議をアラブ側は受け入れず、第一次中東戦争が始まります。

 この戦いの中でイスラエルは「建国」を宣言します。占領した範囲は77%。国連分割案の1・5倍の面積を手に入れました。パレスチナ住民の大虐殺、村落の破壊。「ナクバ」と記憶される大惨事が起きました。自宅の鍵を手にして避難した約85万人の難民。その時、数万人の人口だったガザ地区に19万人が避難しました。

 20年後の67年。イスラエルはパレスチナ全土とシナイ半島(エジプト)、ゴラン高原(シリア)まで占領地を広げます(第三次中東戦争)。近隣アラブ諸国が完敗する中で、パレスチナ人自身が闘いの主体として登場してきます。

 口先だけだったPLO(パレスチナ解放機構)はファタハ(パレスチナ解放運動、アラファト議長)が主力となり、武装闘争にでますが、武力に勝るイスラエルに勝利することはできませんでした。

Q 交渉による解決は出来なかったのでしょうか

 87年の”インティファーダ(民衆蜂起)”が転機をもたらしました。パレスチナ民衆がイスラエル占領軍に投石をするなど、非武装抵抗運動を繰り広げます。イスラエルの圧倒的な武力弾圧にあっても民衆の怒りが優り、国際的な共感も広がります。イスラエルはPLOに対抗する勢力としてハマス誕生を支援しますが、結局、PLOを交渉の相手と認めざるをえませんでした。

 93年にイスラエル・ラビン首相とPLOアラファト議長の間で「オスロ合意」が成立します。パレスチナ側は、48年に奪われた土地への帰還権や新たに拡大した入植地の放棄など違法占領の根幹問題の解決を先送りし、”自治政府”を認めさせることで我慢しました。

 しかし、イスラエル側は合意したラビン首相が暗殺されたり、右派からの巻き返しもあり、入植地を拡大するなどの違法行為をやめません。パレスチナにとって問題解決への期待が大きかっただけに、その失望も大きかったと言えます。

 2000年、第二次インティファーダが起きますが、翌年9・11同時多発攻撃が起き、米国がイスラムを敵対視する「対テロ戦争」に突入。国際的にもパレスチナへの関心は希薄になっていきました。

 自治政府を認めさせたガザ地区はイスラエル軍撤退、入植地撤去が実現しましたが、イスラエルは07年から完全封鎖してしまいます。いわば、かつてナチスドイツがユダヤ人を隔離、収容した「ゲットー」であり、南アフリカが行ったアパルトヘイト(人種差別・隔離政策)の「バンツースタン」と化してしまいました。以来16年にわたる封鎖で、ガザは「窒息」状態でした。

 ハマスの「奇襲」攻撃やイスラエルの「報復」戦争はこうした歴史的背景の中で生まれているのです。

Q どうすれば解決できるでしょうか

 当然、占領被害にあっているパレスチナの要求が出発点になるべきです。第三次中東戦争後、国連安保理はイスラエルに対し占領地からの撤退、難民問題の解決などを決議しました。第一次中東戦争後にも、帰還権(または賠償)を認める決議をしています。これらの決議や国際法を足掛かりに解決案が議論されるべきです。

 米国はじめEUや日本政府などのハマス非難、イスラエル支持では、問題の解決を一層困難にしてしまいます。ガザ封鎖を直ちにやめさせましょう。

  *  *  *  

 パレスチナで起こっていることは、植民地支配からの解放闘争であり、人種差別と闘う反アパルトヘイト闘争といえます。徹底した非武装・不服従の闘いで英国の植民地支配から独立したインドの例があります。武力でイスラエルに勝利することはできません。非武装・不服従の闘いを支援する国際連帯の力が、イスラエルの違法行為を封じ込め、交渉のテーブルに引きずり出す力だと思います。

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