2025年06月13日 1874号
【「殺さない権利」を求めて(9)――非暴力・無防備・非武装の平和学 前田 朗(朝鮮大学校講師)】
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第一次世界大戦後に設立された国際連盟にオーランド諸島問題が持ち込まれました。バルト海のアーキペラーゴ(群島)のオーランド諸島はフィンランド領ですが、スウェーデン語を話すスウェーデン系の人々が住んでいます。地理的にはストックホルムの沖合にあり、フィンランドのヘルシンキの方が遠い場所です。住民はスウェーデンへの編入を希望しましたが、フィンランドとしても領土を手放す訳にはいきません。そこで本件は国際連盟に委ねられました。担当したのが新渡戸稲造国際連盟事務次長です。
新渡戸稲造(1862〜1933年)は陸奥藩士の息子として生まれ、少年時に東京に出て東京外国語学校(現東京外国語大学)や東京英語学校(後の東京大学教養部)に学び、1877年に札幌農学校(現北海道大学)の2期生として入学しました。
札幌農学校は北海道開拓のため前年に創立されたばかりです。1869年に日本政府はアイヌ民族に断りなく、蝦夷地を北海道と命名して、日本領としました。アメリカからウィリアム・クラークらを招聘して「植民学」を伝授しました。日本植民地主義の出発点です。クラークは「少年よ大志を抱け」の言葉で有名です。新天地北海道の開発を「大志」と呼んだわけですが、アイヌ民族との関係では紛れもない侵略でした。新渡戸稲造は同期の内村鑑三(宗教家)や宮部金吾(植物学者)らとともに学問と信仰に励みました。札幌農学校卒業後、帝国大学(現東京大学)に進みましたが、アメリカに私費留学し、アメリカ及びドイツで学んだ後、1891年に帰国して札幌農学校教授になりました。
1901年、台湾総督府の技師になり植民地経営に参加しました。1903年に京都帝国大学教授、1906年に東京帝国大学教授兼第一高等学校校長となりました。東京殖民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任しました。教育者、研究者としての著書や業績が有名です。国際的にも『武士道』の著者として有名でした。その新渡戸稲造が1920年、国際連盟設立時に事務次長に就任しました。1926年に退任するまで7年間、国際連盟で活躍しました。
特筆すべきは国際連盟に人種差別撤廃決議案を提案したことです。新渡戸は植民地主義の申し子で、植民地支配を批判するどころか、植民学推進のリーダーです。ただ欧米諸国で黄禍論が流行し、日本人が差別されたので差別撤廃決議案を出したのです。決議案は否決されましたが、国際社会で初めての人種差別撤廃決議案でした。朝鮮植民地解放に協力していれば良かったのですが。
その新渡戸事務次長がオーランド諸島問題を担当しました。フィンランドとスウェーデンの領土紛争という大変な難題です。ジュネーヴの新渡戸は東京の原敬首相らと電報でやり取りしながら、調停に乗り出しました。新渡戸の提案はオーランド諸島を非武装地帯にすることでした。フィンランド領のまま、非武装とすることでスウェーデンへの軍事的脅威を除去したのです。 |
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