2025年12月12日 1899号
【「殺さない権利」を求めて(15)――非暴力・無防備・非武装の平和学 前田 朗(朝鮮大学校講師)】
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殺さない権利(殺すことも殺されることもない権利)を理解するためには、現代平和思想と同時に、現代人権論を理解する必要がありますが、日本では現代人権論がおよそ理解されていません。リベラル派、平和主義の法学者や弁護士もまったく理解していないのです。
日本国憲法には思想信条の自由、表現の自由、学問の自由、居住移転の自由、職業選択の自由、参政権、生存権、教育権、労働権、人身の自由など数多くの人権規定があります。1946年当時としては充実した人権保障の憲法でした。しかし、日本国憲法は近代人権論の憲法であって、現代人権論の憲法とは言い難いのです。
例えば1948年の世界人権宣言第6条は「すべて人は、いかなる場所においても、法の前において、人として認められる権利を有する」と定めます。「すべて人は人として認められる権利を有する」――当たり前のことがわざわざ書かれたのは、人を人として認めない国家があったからです。ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺は、アウシュヴィツ強制収容所に代表される「絶滅収容所」において大規模かつ組織的に行われました。ユダヤ人を「ゴキブリ」「ウジ虫」と蔑視した極端な差別政策の到達点がアウシュヴィツです。その反省から世界人権宣言は人として認められる権利を定めました。
人として認められる権利は、その後の人権法に引き継がれました。1966年の国際自由権規約(市民的政治的権利に関する国際規約)第16条は「すべての者は、すべての場所において、法律の前に人として認められる権利を有する」と定めます。1969年の米州人権条約第3条は「すべての者は、法の前において、人として認められる権利を有する」。1981年のアフリカ人権憲章(バンジュル憲章、人及び人民の権利に関するアフリカ憲章)第5条第1文は「すべての個人は生まれながらの人間の尊厳を尊重され、その法的地位を認められる権利を有する」。これは世界人権宣言第6条と同趣旨と理解されています。さらに2012年のアセアン人権宣言第3条は「すべての者は、すべての場所において、法の前において、人として認められる権利を有する。すべての者は法の前に平等である。すべての者は差別なしに法の平等保護を受ける資格を有する」。
ところが日本国憲法にはこの規定がありません。憲法教科書を何十冊開いても、人権論のテキストを見ても、この言葉が出てこないのです。日本ではまったく議論されたことのない権利です。日本軍性奴隷制(慰安婦)問題や南京大虐殺をはじめ、日本軍国主義が何を行ったかを想起すれば、第6条の重要性は容易に理解できるでしょう。人として認められる権利を認めない日本の平和主義とは何でしょうか。
<参考文献>
前田朗「人として認められる権利――世界人権宣言第6条を読み直す」『明日を拓く』129・130号(2021年、東日本部落解放研究所) |
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