2026年02月27日 1909号
【本当のフクシマ/原発震災現場から/68/福島15年・チェルノブイリ40年/正反対だった子どもの被曝対策】
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2011年の福島第一原発事故から今年3月で15年。4月にはチェルノブイリ原発事故(1986年)からも40年を迎える。今回は、2つの事故から今後への教訓を読み取る。(以下、文中敬称略)
首都から百万人が避難
ウクライナ共和国の首都キエフ(キーウ)から北に直線距離で50`bの場所にあるチェルノブイリ原発4号機で水蒸気爆発が起き、炉心が吹き飛んだのは1986年4月26日深夜。ソ連政府(当時)が事故を公式に認めたのは4月28日だった。5月1日、北東に約500`b離れたソ連の首都モスクワでは、多数の労働者を動員し、メーデーの祭典が予定通り行われていた。
チェルノブイリから3`bにある原発労働者の町プリピャチでは事故翌日の4月27日に避難が開始されたが、キエフでは住民に対する避難はすぐには始まらなかった。5月に入り、ロマネンコ・ウクライナ保健相は、子どもが外で遊ぶ時間を制限すべきと表明したが避難には触れなかった。
水面下では、避難をめぐって激しい攻防が行われていた。モスクワのソ連政府は、ソ連邦医学アカデミー所属の「放射線専門家」イリイン、ソ連「水文気象委員会」議長イズラエリをウクライナに派遣した。イリインは、事故を小さく見せたいモスクワの意向を受けた御用学者だった。ウクライナ共和国共産党書記長シチェルビツキーは優柔不断で決断を下せずにいた。
一方、ウクライナ共和国最高会議議長シェフチェンコは、強硬に避難の実施を迫った。彼女は、避難は不要と主張するイリインらに「あなたの孫がキエフにいても同じことが言えるか」と反論した。
5月8日、ウクライナ政府は、キエフの子どもたち(日本の小学校1年から中学校2年までに相当する学年)の1学期を5月15日で打ち切り、9月までサマーキャンプを行うと発表する。避難という表現を使わなかったのは、モスクワを刺激することを恐れたからだ。ソ連にとって最も重要な祝日・対独戦勝記念日を翌日に控えていた。
人口300万人のキエフから、5月中旬までに25万人、最終的に100万人の子どもたちが避難した。避難先は、政府・党幹部らの保養地としても知られるクリミアが多かった(現在、クリミアはロシアが実効支配しているが、当時も今もウクライナ領である)。
親元を離れた遠い避難先で、子どもたちは外での遊びの制限も受けずに過ごした。「一緒に避難した仲間とは、集団生活の中で絆が深まり団結心が養われた」。避難経験者オリガ・ホメンコはこう述懐する。

対照的な福島の対応
福島市は、福島第一原発から約50`b。チェルノブイリからキエフとほぼ同じ距離に当たる。筆者は2011年4月、国道4号線に面した福島市北部の大手電機店駐車場で、100マイクロシーベルトを超える空間線量を計測したという住民の証言も得ている。特に放射線量の高かった福島市でも、市民から避難を求める声が相次いだ。
だが、住民説明会で、市は避難を実施しない方針を示す。理由を示すよう求める市民に対する市の回答は「経済が縮小する」だった。
経済活動の主体は人間だ。その人間の健康を犠牲にして発展する経済などどこにあるのだろうか。だが、この当たり前の声は、政府・原子力ムラが作った「復興」の中でかき消された。

罪深い日本政府、県
チェルノブイリ原発事故から5年後の1991年、ソ連は解体。事故処理はウクライナ政府に委ねられた。2006年に来日したウクライナ最高会議顧問ユーリ・シチェルバクは、ウクライナ政府が国家予算の5%をチェルノブイリ事故の処理に支出したと証言する。財政規模から考えれば、日本も子どもたちのために5兆円は使えるはずだ。
残念ながら、ウクライナでも安定ヨウ素剤の配布が十分でなかったため、100万人の避難を成功させながら健康被害を完全に防ぐことはできなかった。
一方で、避難指示区域の大半が福島第一原発から半径20`b圏内にとどまった福島では、県の甲状腺がん検査受診者(1巡目)30万人の中から、2024年12月までに400人の患者が見つかっている。18歳以下では通常100万人に1人とされる甲状腺がん。千倍を超える異常発生だ。チェルノブイリの歴史に学ばなかった日本政府、福島県の責任は重い。(水樹平和)
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