2000年05月19日発行640号

【生きてるうちに語らねば 33 「母たちの戦争体験」】

 毎年迎える六月二十三日の「慰霊の日」。各慰霊塔の前でお見受けするご遺族のお姿に、年々老いの深まっていくのを痛感し、私は「戦争体験を風化させない努力をしなくては」との誓いを新たにしつづけてきました。

 沖婦連(沖縄県婦人連合会)は、一九八一年十二月の婦人大会で「戦争体験の語り継ぎ書き継ぎを実践し、平和の世論づくりに努めよう」と決議した。さらに翌八二年度の定期総会において「戦争体験記を集録する」ことを活動目標に掲げた。

 各市町村婦人会から、体験記または聞き書き二点、原稿用紙六枚程度などを具体的に申し合わせ、実践に移した。

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 二点ずつにしても五十一団体では膨大な分量になることを配慮して六枚程度としたのであったが、続々集まってきた体験記は十数枚から二十枚をこえるものが多く、結局、執筆者の同意を得て編集部で縮めさせていただくことになった。

 「思い出すことさえつらいのに、文章にして後世に残すなんてとても」と拒み続けてきた会員たちも、いったん書き始めると胸の奥の痛みが堰を切って流れ出し、筆が止まらなくなったのでは、と察せられた。それを編集部は涙をふきふき縮めさせていただいたのである。最初から六枚を厳守された方々からは、もっと書きたかったのにとの不満の声もあった。

 集まった体験記は七十点になった。激戦のさ中、十歳未満の幼女から四十代の子育て中の世代に至る記録が五十九点、戦後生まれの追体験二点、海外での戦争体験記八点であった。

 編集作業に首を突っ込んでいるところへ、八十代の先輩から電話で激励をいただいた。「戦争体験記の集録は沖婦連の重要な仕事だと思う。一集といわず二集、三集と続けてほしい」と。

 国の内外を問わず戦場ともなれば最も悲惨な目にあうのは老人であり、子どもであり、母たちである。沖縄の女たちは地獄の戦場を身をもって体験した。貝の如く口を閉ざしていた母たちは、口を開いてその戦場体験を生々しい表現で証言し、平和の尊さ、命の大事さを強烈に訴えはじめたのである。

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 こうして「母たちの戦争体験」は一九八六年三月、「平和こそ最高の遺産」と副題がつけられて世に出された。予想以上の反響であった。県内外のマスコミから取材が殺到した。

 本土の新聞社のある記者から「この本をいちばん誰に読んでほしいですか」と質問を受けた私は、「天皇陛下と中曽根首相(当時)です」と答えた。

 「私たちのような戦争未亡人を二度とつくらないで」という執筆者たちの絶叫を、この本からじかに聞きとってほしいとの思いが強かったからです。

(筆者は沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会事務局長)

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