2000年05月26日発行641号

【中村文子の「生きてるうちに語らねば」 34 一フィート事務局入り】

 一九八六年五月、私は沖婦連副会長十二年にわたるいっさいの業務から身を引きました。

 一九三三年教職に就いて以来、五十余年務め続けた公的な仕事はこれで終わり。これからは自らの選択で思うままのびのびと自分の人生を歩むのだ。ときたま進んでボランティア活動に参加できれば上上(じょうじょう)だ、などと胸中ひとりで楽しんでいました。

 ところが、そんな私に、一フィート運動の会の代表や運営委員の先生方から次々と電話がかかってきた。一フィート運動の会事務局長就任への強い説得である。いろいろ理由づけして懸命に辞退申し上げたのだが、結局、その誠意あふれる要請を断ることもできずに引き受ける破目になってしまった。

   *   *    

 前事務局長が病気療養中のため、事務引き継ぎがなされないまま、八六年六月二十三日に私は事務局入りした。

 たまたま当日は「慰霊の日」とあって、新装なった沖縄青年会館で沖青協主催の「上映と講演の集い」が催されることになっていた。講演は、一フィート運動の会運営委員の大田昌秀琉大教授(当時)であった。この手伝いが私の初仕事となった。

 予備知識のないまま事務局入りした私は、日々の業務を詳細に記録し、それを通して仕事の内容を体得しようと努力した。

 一フィート運動の会運営委員会で製作した記録映画「沖縄戦未来への証言」は、県内市町村十か所の公民館で記念上映を進めるとともに、団体や地域からの要請に応じて上映活動を始めた段階であった。

 「沖縄戦未来への証言」は、初公開以来、県内外でたいへんな反響を呼んで、県外からのフィルム購入、レンタル、資料提供などの問い合わせ、県内での上映要請の電話や文書が事務局に殺到した。上映班は、休日を返上して昼夜兼行で上映活動に奮闘していた。

 こうして、みんなで忙しい日々を送ったかいがあって、年末に支払いを目途づけされていた製作のための多額の借り入れ金、現像所やその他への支払いを済ませ、大型映写機の購入をも果たすことができた。事務局は肩の荷を一つ降ろした思いであった。

   *   *    

 年の暮れ、運営委員会は記録映画製作等で苦労の多かった八六年をしめくくり、八七年前半期に向けて活動目標を次のように決めた。

・末端地域へのオルグ活動

 公民館での上映運動  

・新しいフィルムの購入 

・「未来への証言」英語版

 の作製        

・県外、海外県人会への呼

 びかけ        

・学校上映運動     

 事務局は、これを実践に移せばよいのだ。平和運動は息長く地道にやらなくちゃ、自分にいい聞かせながらも、新米事務局長は緊張感を拭いきれなかったのです。

(筆者は沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会事務局長)

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