2000年06月09日発行643号

【生きてるうちに語らねば 36 ニューヨーク行動】

 一九八八年六月六日、ニューヨークに到着した第一日目から上映活動を始めました。

 ニューヨークの沖縄県人会が日系人会館のホールを借りて「『沖縄戦未来への証言』の上映と交流の夕べ」を開催してくれたのです。

   *   *    

 アメリカで空手を教えている沖縄県人会の会長は、名護中学校時代の私の教え子だった。集会準備はずいぶんと苦労したらしい。

 「先生、映写機を借りるのにニューヨーク中を探しましたよ」という彼に、「なんで?」と聞くと、「先生、今はフィルムで見る人は誰もいませんよ。みんなビデオですよ」。「そうか、そうか、ご苦労をかけたね」と労をねぎらって上映開始。

 当日は一世たちの強い希望で日本語版を上映した。

 会場には、ワシントンから飛行機でかけつけた女性もおられて、私どもを驚かせた。なかでも、九十歳の一世に、六十四歳の二世の娘さん、二十八歳の三世のお孫さんと三人の並んだ姿がとても感動的であった。一世は最初から目頭をおさえて泣きっぱなしであった。

 交流会では、県人会婦人部のみなさんの手づくりでもてなされ、ウチナーの心と味をニューヨークでかみしめることができた。

 こうして、一フィート代表団の活動はウチナーンチュならではのふれあいで着実に一歩を踏み出した。

   *   *    

 今回の国連行動でたいへんお世話になったのが、日青協(日本青年団協議会)だった。

 そもそも全国組織をもたない一フィート運動の会では、受け入れ団体がないとNGOの会議にも出れなかった。出発の日時も迫り、いら立ちが高まっているときに、日青協が市民団体の窓口になってくれるとの情報が入った。早速、電話で参加の申し入れをすると、「喜んで」と答えてくれたのが日青協の瀬田川事務局長だった。

 六月十日、瀬田川事務局長に付き添われて私たちは国連本部ロビーで待機した。明石康国連軍縮問題事務局次長(当時)を通して、英語版を国連に贈呈することが決まったからだ。

 贈呈は会議室で行われた。普通は、廊下や部屋の入口で会うぐらいなのに、部屋に入り、一人一人が自己紹介をして、「国際的に広く見せていただきたい」と要請した。

 明石事務局次長は「一フィート代表団が要請を行った国連代表部(ソ連、中国、ニカラグア、パラグアイ、ニュージーランド)にまず見せよう。そして各国代表部に。平和への力、戦争のない世界づくりに役立てたい」と約束していただいた。

 目的の一つだった国連への贈呈がいま果たせたのだ。そのうえに事務局次長から約束と激励の言葉までいただいた。片方の肩の荷がおりた思いでした。それにしても、これは日青協の配慮なしには実現できなかったことです。深く感謝したものです。

連載 ひとつ前へ
連載 ひとつ後ろへ

ホームページに戻る
Copyright FLAG of UNITY