一フィート運動は純粋な草の根運動です。こんなエピソードがあります。
一九九〇年前後の頃です。ドイツのフランクフルトから記者が取材にきて、こう尋ねた。「あなた方は、フィルムの購入などたいへんな活動をしているが、国からどれだけ補助をもらっているのですか」。
「私たちは、国からも県からも市からも大企業からも、一切お金をいただいていません。みんな一般庶民の、草の根の善意で活動しています」と答えると、その記者は「日本という国は、自らが起こした戦争の後始末も民間にやらしているのか」と憤然としている。ドイツの記者にしてみれば、そう思うのは当然でしょうね。
でも、私たちにすれば、国の補助をもらえば本当の草の根運動にならないのです。
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この運動の最初は、全県民からの百円カンパから始まった。
確か、広島が千円で10フィートを買い取ろうと呼びかけて映画『人間をかえせ』を作った。沖縄ではどうか。
沖縄は、全県民が戦争被害者であり遺族だ。沖縄戦で死んだ人と全くかかわりのない人なんていない。親戚であったり、知人・同級生・教え子であったり、とにかくみんな犠牲者とかかわりがある。千円じゃない、沖縄は百円だ。百円で一フィートのフィルムを買い取る。これを全県民の仕事としてやろうという運動でいこう。
こうして一九八三年十二月八日に、会が発足した。活動のあり方を示す通称の「沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会」の方がいまではよく知られているが、正式名称は「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」。
その当時、私は沖婦連にいたが、各地域の婦人会も全力でカンパに取り組んだ。子どもも大人も全県民が立ち上がった。
貯金箱ごと募金した子どもがいた。老夫婦はビニール袋いっぱいのカンパを持ってきた。ときには、事務所を訪れて、名前も言わずに十万円を置いて帰った人もいた。後で追いかけて尋ねると、「長い間、思いつめていたことですから。名前なんて結構です」とキッパリ。
こうして運動を始めた「会」だが、その後も財政面でピンチに陥ったことは度々ある。しかし、その度にどこかで支えてくれる人たちがでてきて、今日までもちこたえることができた。
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文字通り、草の根の善意で活動することができたのです。これが、国や行政の助けを借りていれば、違っていたでしょう。「金をだすなら、口も出す」。今の日本政府のやり方と同じことが起こったでしょう。「金をやるから、基地を置け」と。
国から補助をもらっていれば、一フィート運動はそれで終わっていました。息長く続けていられるのは、草の根運動だからです。
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