一フィート運動の会は、県内外からのカンパによってアメリカ国立公文書館から購入した記録フィルム百六十三本をもとに、一九八六年五月に記録映画『沖縄戦未来への証言』を完成させ、各地で上映活動を展開しました。
上映活動二年目の八七年後半からは、上映とともにフィルムに映った悲惨な場面の証人捜しにつとめることにしました。
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地域での上映が済むと、「『私が映っている!知っている人が映っている!』とお気づきの方は名乗り出てください」と呼びかけた。また、「画面の場所に心当たりがありましたら教えてください」と、購入した生のフィルムを映したりした。
たとえば、井戸の中に隠れていた住民が米軍に収容される場面がある。音も声も出ない生のフィルムで、場所が特定できない。しかし、住民はやせていない、着物もきちんと着ているし、髪もバサバサではない。これは米軍上陸後すぐの段階に違いない、そうすると中部のどこかだと推測できる。それで北谷なら北谷で上映会があると、『未来への証言』上映の後で、この生フィルムを映して「場所に心当たりはないですか」と尋ねるわけです。
こうした活動の中で、次々と地域から証言者が現れてきて、私たちを大いに感動させたのです。
「米軍医による健康診断を受けている少女は私だ」「収容所の大勢の中に母と弟がいる」「壕から出て米軍に投降する防空頭巾の少年は私だ」等々。このようにして、「『地獄からの生還』のあの壕の中に私もいた」と証言したのが安里要江さん。「『白旗の少女』は私です」と名乗り出たのは比嘉富子さんでした。
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実は、「白旗の少女」こと比嘉富子さんは、八八年の国連軍縮特別総会への一フィート運動要請団の一員に参加し、「白旗の少女」のカメラマン捜しを続けました。
ニューヨーク行動の中で、各都市での交流の中で、比嘉さんは自らの戦場体験と重ねて「私を写したカメラマンに会いたい」と訴え続け、大きな反響を呼びました。にもかかわらず最後のホノルルに至っても捜し出すことはできませんでした。
しかし、帰郷後二週間ばかり経った七月に、比嘉さんは再び渡米し、スチール写真のカメラマン・ヘンドリクソン氏と四十三年ぶりの対面を果たしたのです。八月にはヘンドリクソン夫妻が四十三年ぶりに沖縄の土を踏みました。一フィート運動の会では「平和を考える一フィート運動の集い・沖縄戦カメラマンを囲んで」を開催し、「カメラマンの眼に映った沖縄戦」を語ってもらいました。
「日本の軍隊と住民の区別がつかなくて、つらい戦争であった」と涙をおさえるヘンドリクソン氏の表情にいい尽くせない思いが込められているように見受けられました。
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