2000年07月07日発行647号

【生きてるうちに語らねば 40 「慰霊の日」】

 一フィート運動の会は、「フィルムに映っている私」や「壕(ガマ)は今」など各年で年間の努力目標を設定し活動してきました。一九八九年は「慰霊の日」の休日廃止の問題がもち上がって大きな波紋を呼びました。

 八九年から九〇年にかけての「慰霊の日」の休日存続の運動は、それはもうたいへんな活動でした。

 一九六一年、琉球政府立法院は「戦没者の霊を慰め、恒久平和を祈る日」として「六・二三慰霊の日」の休日を制定し、今日に至っていた。

 ところが、八九年に沖縄県は、地方自治法の一部改正にあわせて休日廃止の条例改正案を六月議会に提出した。

 地方自治法の改正で、国民の休日が国の法で規定されるという。まさか、「慰霊の日」の休日まで規制されることはないだろう、県民は等しくそう思っていたであろう。ところが、三月七日に「国の規定通り、休日にするわけにはいかない。慰霊の日の理念は変わらない」と県は強調したと、琉球新報夕刊は大見出しで報道した。

 これはただごとではないと、一フィート運動の会は三月十日、運営委員会で「慰霊の日の休日廃止」問題について話し合い、文書をもって県及び各市町村に存続要請の運動を展開することを決めた。

 五月には、一フィート運動の会を含む二十五団体が「『六・二三慰霊の日』の休日廃止に反対し、その存続を訴える会」を結成して要請活動を行った。毎週土曜日の午後は、街頭署名運動を展開して、県民の意識高揚に努めた。署名は定例議会が開かれる度に、議会議長に手交した。

 しかし、県は住民の声に耳を傾けようとせず、休日廃止条例案を六月、九月、十二月の定例議会に上程しては、継続審議を繰り返した。

 いよいよ正念場といわれた九〇年二月定例議会を迎えた。

 条例案が審議される日は、朝から傍聴席を埋め尽くした。強行採決されるのでは?という不安にかられて、身じろぎもせず議場を見つめていた。午前中、他の議題で議事は進行した。緊張した私どもは肩すかしをくわされたようで腹立たしさをおぼえた。

 休日問題の審議は明日だ、という声が聞こえて、与野党の議員たちは昼食に席を立っていった。”明日が正念場なら、さらに最大動員をかけなくちゃ”そんなことを考えながら一応事務局へ引き上げた。

 ところが午後三時頃になって、「条例案は廃案になった」と、各新聞社から事務局に情報が入った。「与野党の合意により審議未了で廃案」ということだ。ほっと胸をなでおろし、次第に緊張がほぐれてきた。

 平和を希求する草の根の声が勝ったのです。「慰霊の日」にかける県民の情念が勝ったのです。

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