一九九一年は年明けとともに、湾岸での緊迫した状況が刻々と報道されました。どんな事態になっても戦争だけは避けてほしい。これは沖縄戦を体験した者の心からの祈りでした。
しかし、一月十六日「戦争へ一触即発」と報じられ、翌十七日「湾岸戦争に突入」と報道され、沖縄住民を恐怖におとし入れました。
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私が「記録の小箱」と呼ぶ、そのときどきの私のメモには、こう記されている。
一月十六日 今日二時、イラク軍クウェートより撤退の時間切れ、いわゆるタイムリミット。世界中が息をのみ、祈る思いでこの時間を待っていたであろう。ところが、二時の時間切れがきてもイラク軍は撤退しない。フセイン大統領は「妥協はしない」と強硬姿勢を崩さず。これは宣戦布告か。米軍基地七五%を押しつけられている沖縄にとって対岸の火事ではない。恐ろしいことだ。
一月十七日 今朝八時四十分、米国を中心とする多国籍軍、バグダッドを空爆と、本物の戦争に突入したのだ。戦争ともなればどんな犠牲が出るか、両方ともよくわかっているはずだ。それでも人間は戦争をする。犠牲は日々貧しく暮らしている庶民の老人、女性、子ども、身障者に深くしわ寄せする。沖縄戦はその最たるものであった。やめろ。和解せよ。一刻も早く戦争を中止せよ。
一月十八日 多国籍軍バグダッドを爆撃と。バグダッドは長い歴史の貴重な遺跡の多い所であろう。バビロニアの遺跡発掘は進んでいない。手つかずの所、これからという所も多いという。それらが破壊されるのではないかと心が痛む。文化財のすべてを失った沖縄戦と重ねて戦争の愚かさに腹が立つ。
一月二十四日 日本政府自民党は湾岸戦争への貢献策を詰めた。(1)多国籍軍への追加協力九十億ドル (2)難民輸送のための自衛隊機派遣 (3)日本の民間機を週明けからカイロに派遣と、憲法前文が無視されはじめた。
一月二十六日 一フィート運動の会は、在沖米国総領事にあて戦争中止要請の電報を打つ。
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二月四日には「湾岸戦争に反対する市民・住民連絡会」として記者会見し、直ちに反戦週間の行動を開始した。ビラマキ、県庁前でのハンスト、集会にデモと続く一週間の行動だ。
ハンスト小屋の前に車を止めてカンパをするタクシー運転手、戦傷の足を引きずってカンパに来た高齢者・戦争体験者、ことに高齢の婦人たちの座り込み参加など、沖縄県民の反応に心を打たれる日々だった。
二月二十二日に「イラクが無条件撤退」と地元新聞が号外を出した。
ところが、湾岸戦争が一段落すると、日本政府は国際貢献の名で自衛隊の海外派兵をもくろむ「PKO法案」を提出してきたのです。
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