2000年07月21日発行649号

【中村文子の「生きてるうちに語らねば」 42 PKO法案】

 「復帰二十年」の節目を迎えた一九九二年は、激動の節目となりました。

 前年廃案になった「PKO(国連平和維持活動)法案」が息を吹き返し、ただならぬ様相で論戦が繰り広げられたからです。

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 五月十五日の復帰記念日を三日後に控えた十二日、国連カンボジア暫定行政機構明石康特別代表は、「国連PKO物資集積所、派遣要員の訓練基地を沖縄に建設する」と発表した。余りのショックに声も出ないほどの報道であった。

 なぜPKO基地が沖縄なのか。基地をすべて沖縄に押しつけておけば日本も国連も安泰なのか。

 時がたつにつれて、この明石発言は「PKO法案」反対運動を盛り上げる結果になった。

 「『PKO法案』に反対する市民連絡会」は連日リレー座り込み、毎土曜日のビラまきデモ行進で市民に訴え、国会でこの法案に反対している議員に「廃案に追い込むまで共にがんばろう」と激励の電話と打電を続けた。

 マスコミの毎日の情報を見逃すまいと努力も続けた。六月五日付新聞の「戦死、捕虜になったら…自衛隊一一〇番に家族らの相談相次ぐ」の見出しに吸い付けられた。そして遠い日のことが鮮やかに思い出された。

 満州事変の導火線となった「柳条湖事件」(一九三一年)が起きた時、私は師範学校の四年生だった。

 地理の川口知良先生が「君たち、職業軍人の妻になるなよ」と言われた。若い将校が立派に見える時期だった。戦局はますます拡大して職業軍人の妻だけでなく、都市や農漁山村から狩り出された一家の働き手の妻たちが、どんどん未亡人になっていった。その最たるものが沖縄戦だった。

 血を流しに自衛隊が海外に派兵されたら、世界の人々は「立派な国際貢献だ」と思うのだろうか。ことにアジアの人々は。

 いつか渡った危ない橋を再び渡ってはならぬ。十五年戦争をくぐり抜けてきた者にとって自衛隊海外派兵をもくろむPKO法案は絶対に止めねばならない。子孫にうらまれないためにも。

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 六月十五日、「PKO法案反対」の県民大会が開かれ、久々にデモ隊のシュプレヒコールが国際通りに響き渡った。その夜、九時のニュースで「PKO法」を採択し万歳を叫ぶ自民党議員らの姿が映し出された。沖縄からの訴えは国会にはとどかなかったのか。

 「平和こそ最高の遺産」と叫び続けてきたが、それがいかに苦難の道であることか。たとえどのような世相になろうとも「平和を希求し、戦争に反対する思想とそれを行動に移す実行力」―この筋金こそ子孫への最高の遺産にしなくてはならないのです。

(筆者は沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会事務局長)

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