2000年07月28日発行650号

【生きてるうちに語らねば 43 「壕・ガマ」は今】

 沖縄の復帰二十年を記念して首里城正殿の復元工事が進められました。ところが、首里城地下に眠る第三十二軍司令部壕は修復の企画もなく、とり残された形のままでした。

 かねてからその修復公開を望んでいた一フィート運動の会は、総合事務局の許可を得て、一九九二年七月二日に壕の調査を実施しました。

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 当日は予想をこえる参加となった。平和運動団体、平和ガイドの会、鉄血勤皇隊生存者、学生、一般市民、マスコミ関係者ら三十人余が守礼の門近くに集まった。

 第三十二軍壕を調査した経験のある城間茂松氏を講師に迎えた参加者一行は、塀を乗り越えたり、小川を飛び越えたりして、旧琉球大学女子寮近くの第五坑道口から壕に入った。

 「できる限り遺品を集めて。写真をたくさん撮って」と、若い参加者に依頼して私は小川の上の草原で待つことにした。

 四十メートルばかり入った地点で落盤があり、一行は行く手をはばまれたが、地下水の流れる壕内、ツルハシの跡の生々しく残る壁などを写真に撮り、若干の遺品を収集した。

 一フィート運動の会は、その写真を添えて県と那覇市に対して「第三十二軍司令部壕の修復公開によって首里城周辺を文化と平和のシンボルゾーンに整備して頂きたい」旨の要請をした。

 また、第三十二軍壕の調査をきっかけに一フィート運動の会は、沖縄戦の証言者ともいうべき地域の壕に目を向けた。

 第三十二軍壕はあくまで戦争遂行のための壕だ。住民が避難した壕・ガマは今、どうなっているのだろうか。まず、那覇市を中心に周辺の壕を調べてみようとみんなの意欲が高まった。

 幸いにして三十年来ほとんど単独で壕・ガマの調査活動を続けてこられた国吉勇氏を指導者に迎えることができた。早速、国吉氏のリードでグループを作り調査活動をはじめた。

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 戦争中「住民の命を守ったガマ」「軍民が雑居した壕・ガマ」「軍が民を追い出した壕」は今、雑木におおわれたり、チリ捨て場になっていたり、開発でつぶされ姿を失っていた。いずれもひっそりと静まりかえっている。今調査をしなければの感を強くした。

 十一月までに那覇市内の壕百か所近くを調査し、スライドにまとめた。十二月八日の平和集会は、「壕・ガマは今」をテーマにスライドを上映し、国吉勇氏に解説していただいた。そして、壕・ガマ調査は継続活動として九三年にも引き継ぐことにしました。

(筆者は沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会事務局長)

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