多くの国民の声を踏みにじってPKO(国連平和維持活動)法案を強行採決した政府自民党は、すかさず自衛隊の海外派兵を決行しました。
一九九二年九月二十三日、十月一日に、その第一陣はカンボジアへ飛びました。無神経にも、かつて県民を巻き添えにして地獄のような地上戦を展開した沖縄を中継基地にして。
その出陣風景に新たな”戦前”の到来を連想し、改めて「沖縄戦を風化させてなるものか」の思いを深くしたのです。
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首里城地下の第三十二軍司令部壕の調査をきっかけにした”沖縄戦の証言者”ともいうべき地域の壕の調査活動は活発に進んだ。
十一月に調査グループは二十数回にわたって真玉御嶽(まだんうたき)地下壕に入り、数々の遺品と二十体の遺骨を収集した。この調査も、もちろん国吉勇さんの指導によるものであった。
出入口から三十メートルばかりの地点で「具志頭村平仲正吉」と刻まれた万年筆と頭がい骨のない一体を見つけた。万年筆から十センチばかりの所にあるお骨は万年筆の持ち主であってほしいとていねいに収集した。
お骨は国吉さんの「秘密の場所」(県援護課に引き渡すまで大事に納めておく場所)に安置し、万年筆だけ持ち帰った。
二、三日たって、具志頭村役場から「新聞報道を見て遺族が名のり出てきました。近くそちらに伺うはずですからよろしく」と電話が入った。
事務局では、ふた付きの紙箱を内張りして小さなお棺を作り、秘密の場所のお骨を清めお棺に納めた。
数日後、「平仲正吉は私の兄です」と名のり出た大城トヨさんが親戚の女性三人を伴って来局した。
トヨさん兄妹は幼い頃に父親を亡くし、正吉さんは親戚に預けられ離れ離れに育った。
「万年筆が唯一の遺品、お骨も見つかったが頭がい骨はどこに飛んだんでしょうね」とトヨさんはささやくように言った。
「四十年以上もたってこんなこともあるんですね。うちは戦争で大勢なくなって、仏壇はトートーメー(位牌)だらけですよ」と、激戦地の悲惨さもひとこと。
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「これから真玉御嶽へ行って、ヌジファして具志頭の墓地へお供します」と言って一同は深々と頭を下げて事務局を去った。ヌジファとは、これまでお世話になったその地の神様への、平仲正吉の霊を生まれ故郷の墓地にお供しますという感謝と報告の儀式である。
正吉さんは四十七年ぶりに肉親の墓地で供養を受ける。
それにしても、「わが家の仏壇はトートーメーだらけです」というトヨさんの言葉が重く残るのです。
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