一九九三年十二月で、一フィート運動の会は十年の節目を迎えました。
ところが、年が明けた九四年一月十日、一フィート運動発足当時から副代表として会活動を支えてこられた宮里悦先生が亡くなられたのです。
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八三年、当時沖婦連会長の宮里先生は、一フィート運動の会仲宗根政善代表の要請に「母親集団として、この大事な運動を支えましょう」と二つ返事で副代表を引受けられた。そして、沖婦連は婦人大会の決議事項に「一フィート運動に協力しよう」と一項目を明記し、組織を挙げて募金活動に取り組んだ。
米国立公文書館から初めて未公開フィルムが届いた時(八四年)、福地曠昭副代表とともに国会で上映、画面の解説をされたこともあった。
宮里先生は折りに触れて「平和こそ最高の遺産」と会員に訴えられた。沖縄戦の悲惨な体験から、子どもを生み育てる母親として、心と体からの訴えであったと思う。
一フィート運動の会は、戦争の季節(四月、五月、六月)がめぐってくると、その節目節目で「平和祈念集会」を開催し、くり返し沖縄戦の真相を伝える努力を続けてきた。子や孫たちに「平和を希求する心」と「戦争に反対する行動力」を育てたいからである。そのことが「平和こそ最高の遺産」と訴え続けられた宮里副代表のご遺志に添うことになろう。
先生は無類の読書家だった。そして無類のメモ魔だった。
「人間の記憶ほど不確かなものはない。鮮明な記憶でも年とともに消えていくのだから、頼りになるのは記録だけ」と、まめに日記をつけられていた。それは国内、海外の出張先でも一日も欠かすことはなかった。
まめに書きしるされた記録は「やんばる女一代記」「共に生き共に悦び」という貴重な著書となった。また、「沖婦連三〇年のあゆみ」「母たちの戦争体験」等、数々の共著、編書の重要な資料となり、激動期を生きた女の生きざまを後輩に示すこととなった。
さらに、決断するとじっとしておられないその行動力は、「石ん鉄(かに)ん蹴(き)り割(わ)い蹴り割い」(石でも鉄でも蹴り割り進む)という表現にふさわしい鮮やかな活動として展開された。
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宮里先生は、つねづね「二十一世紀はどんな世の中になるか。それを見とどけなくちゃね」と言われていました。二十一世紀にあと六年残して旅立たれた宮里先生。「見とどけたい」と言われた平和の世の実現に向けてがんばらなくてはと思うのです。
沖縄戦終結五十年を迎える九五年、一フィート運動の会はこの年を新たな平和の草の根運動のスタート地点にと、かねてよりの懸案「沖縄戦総集編」の製作に取り組むことになるのです。
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