2000年08月18日発行653号

【生きてるうちに語らねば 第46回 戦後五十年】

 戦後五十年の節目を迎えた一九九五年は、「平和の草の根運動の新たな出発点に」を合言葉に、「沖縄戦総集編」ビデオの制作に取り組みました。八六年に完成した「沖縄戦未来への証言」に続く二作目です。

 沖縄全土が戦場になった沖縄戦だが、北部、中部、首里、那覇、離島とそれぞれ戦場の様相がちがう。

 これまで入手した三十五時間分の未公開フィルムの映像を総点検してみると、激戦地になった南部の戦闘場面がとくに多い。地域によってフィルムの量に差がありすぎる。そこで「総集編」とすることにした。

 二百四十本余の中から未公開の映像を中心に五十七分のビデオにまとめた。タイトルは「一フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦」とした。大勢の方々のご支援と制作を担当した方々の熱意の賜である。

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 五十年前に米軍が沖縄本島に上陸した四月一日、初公開にこぎつけた。

 しかし、このビデオ完成を間近にして、一フィート運動の表看板であり、精神的な支柱であった仲宗根政善代表が亡くなった。

 じかにお目にかけられなかったのが残念でならない。きっと無念の最期を遂げた大勢のひめゆり学徒や同僚の方々と遠い空から四月一日の初公開をご覧くださったことと思う。

 故仲宗根代表はつねづね「空に一機の軍用機も飛ばない、地上に一台の戦車も走らない、海に一隻の軍艦も浮かばない、そんな沖縄が本当の姿だ。それを日本に、世界に広めたい」と言われた。その思いを私たちは受け継いでいきたい。

 総集編「ドキュメント沖縄戦」は初公開から少々手間取ったが、ビデオ発売にこぎつけた。全国放送で紹介されたこともあって、全国から注文が殺到した。驚くばかりの反響だった。国民は沖縄戦を忘れてはいなかったのだ。また、改めて一フィート運動の使命を痛感した。

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 戦後五十年目の沖縄は激動の年だった。とくに九月以降の出来事の印象は強烈だった。

 「米兵が女子児童乱暴、本島北部三人がかりでら致」。九月九日付地元新聞の報じた大見出しに県民の怒りが爆発した。

 五十年間耐えてきた県民の悲しみ、憤り、屈辱の数々が一気に火を噴いた。「またかではすまされない」「許せない、絶対に」と声をあげ、それぞれの団体が動き出した。大田知事(当時)も「米軍用地強制使用代理署名拒否」を決断した。そして十月二十一日、宜野湾市海浜公園で開催された県民総決起大会には八万五千人が参加した。「行政の長として一少女の人権を守ることができなかったことを県民の皆さんにおわびしたい」との知事のあいさつは、全参加者の胸を打ったのです。

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