私は一九一三年の丑年生まれ。今、牛のように太くたくましい脚で八〇の坂を登っています。次の話はこれまでに語ったことですが、戦争の世紀を歩み続けた八〇年を振り返るとき、必ず思い出すことです。
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一九四五年十月の末、生き残った住民は戦場の収容所から出身市町村への帰還が許された。帰り着いたふるさとは、戦争の残骸を見せつけて荒廃の極地。沖縄の住民は宝物のすべてを失っていた。
父や夫や兄弟や息子たちは帰らず、マラリアでふるえる家族をかかえた女たちは、わずかに生き残った男たちと力を合わせ、生活の立て直しに奮迅の働きをした。そんなウチナー女たちをアメリカ人は「彼女たちの縫い物上手はミシンも及ばない」「彼女たちの首の骨はどうなっているんだ」と驚嘆した。
私は再び教壇に立った。つぎはぎのワンピースを着て赤ん坊をおぶっての出勤であった。「お国の為、天皇の為と教え込まれた息子や娘たちは帰って来ないじゃないか」こんな幻の矢が背中に向けられているような慚愧に苦しむ出勤、帰宅の道々であった。
そんな或る日、パールバックの「母の肖像」に出会った。職員の誰かが防空壕から見つけてきて廻し読みをしていたのである。「この子を戦場に出すわけにはいきません」と、南軍の兵士に引っ張って行かれる息子の足にしがみついて息子を取り戻すくだり。時代や国柄が違うとはいえ、戦時中、体を張って自己主張した女性がいたのだ。一夜泣き明かした私の背骨に一本の筋が通った。
四八年、沖縄も本土並みに六・三・三制が施行され私は中学へ移った。そこは本部補助飛行場に隣接した荒涼とした敷地であった。飛行場の周りのわずかな土地を耕していた住民は朝鮮戦争の激化に伴い何回も立ち退かされた。T君の母親は家庭訪問の私に「艦砲が飛んできてもこの子の体から抜け落ちないものをしっかりたたき込んでください」と言った。「艦砲の飛ばない世界を作るのが私たちの役目です」と、私は心の中で答えた。私の背中の筋金に一本の支えが加わった。
月日は流れ、沖縄は復帰して日本の一県になったが、米軍基地はそのまま、自衛隊まで配備された。
* *
「教え子を再び戦場に送らない」と決意した当時の女教師は八〇の坂を登り、歩んできた八〇年を次のように振り返るのです。
お国の為の十代二〇代、
修羅の巷の三〇代、
異民族軍政下の四〇代五〇代、
復帰祝うはずの六〇代、
裏目に出て二〇余年、
ウチナーおんなは八〇の峠に立つ。
見渡す限り米軍基地自衛隊基地、
男の野望の爆音の日々、
それある限り死ねないの、
生きて闘うのです。
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